ダメ会議とは
弊「日本マウント」は、あまり会議はやりません。
必要なときのスポットでやるくらいなのと、毎週月曜日だけ定例で短い会議をするだけです。
といっても、総勢30名足らずの小さな会社ですから、会議と言うほどの仰々しいものは必要ないくらいなのでしょう。
しかし、組織が大きくなるにつれて、やはり目的が明確なしっかりとした会議は必要になってくると思います。
あるセミナーのDMのなかにダメ会議についての記述があり、面白かったのでご紹介します。
タイトルは「ダメ会議の6段階」。
1.懐疑 参加者は全員、「何でこんな会議をするのか」と心では思ったまま始まる。
2.貝議 出席しているだけで、みんな貝のように黙って発言しない。
3.怪議 目的も狙いもハッキリしないから、出席者全員が聞き役に徹する。
4.階議 結局、組織の階層で最も上位の人の意見が支配する。
5.回議 責任はタライ回しにされる。
6.悔議 参加者は出たことを後悔する。
いかがですか?
弊社も気をつけて、このような会議にならないようにしたいと思います。
ちなみにこのセミナーのDMは、船井総研主催の「デキル社長は自立型社員をこうつくる」というタイトルのセミナーのものでした。
DMからもいろいろ学べるところがあるものです。
たかがDM、されどDM。
「おひさま」が終わりました
NHK連続テレビ小説「おひさま」が終わりました。
信州の安曇野や松本を舞台に約半年という期間。
私はほとんどテレビは観ないのですが、ついついワンセグで時間があるときは観るようになり、ついには最終回に至るまで全体の8割ぐらいは観てしまいました。
こんなことは近年、珍しいことです。
やはり、故郷の信州での話しだったり、弊社「日本マウント」が特に力を入れてきた信州の安曇野を舞台としての話だったりしたからなのでしょう。
最後はほぼ全員が、ハッピーエンドの話だったので何かしらほっとしました。
特に主人公の陽子たちの世代の登場人物が全員、元気良く長生きしていたことは何よりでした。
戦争を体験し、戦後の貧困を体験し、経済復興を体験した、いわゆる「陽子世代」は実にたくましい人たちが多いです。
ちょうど私の父や母の世代の人たちです。
今の日本があるのも、彼ら彼女らの頑張りの結果なのでしょう。
本当に頭が下がる思いです。
精神的にも強いし、体も丈夫な人たちが多いので、きっと最も長生きする世代ではないかと思います。
むしろ、私たちの世代は大変です。
運動不足や飽食でメタボが多いのや、精神的に強くないので、直ぐにストレスに負けてしまいます。
戦争や貧困など最悪の極限状態を体験していないので、いわゆる「逆風」や「想定外」というやつに対する免疫がないのです。
それが、年々増加し続ける精神病や自殺の数に反映されているのかもしれません。
さて、この「おひさま」効果もあってか、弊社が力を入れる信州・安曇野地方の人気が急上昇中です。
「おひさま」は終わりましたが、安曇野の人気はまだまだ続くことでしょう。
自然が美しく、しかしどこかしら都会的なセンスがある「安曇野」をこれからもよろしくお願いします。
戦略とは捨てること
ある経営セミナーでのことです。
「戦略とは捨てることなり」。
講師の言葉が会場に響きました。
このときに、「戦略とは何をやるかよりも何をやらないかをまず決めることである」という、以前に読んだ本の中の言葉を思い出しました。
講師の言葉は続きます。
自動車産業での「スズキ」の例。
いわゆる捨てたものは何か。
一つ目は「車種」。
軽自動車以外をほぼ捨てました。
スズキは軽自動車に特化しています。
その結果、「軽」はスズキの代名詞のようなものとなりました。
二つ目は「市場」。
北米を捨てたというのです。
かわりに「インド」でその不動の地位を築きました。
こうして「スズキ」は競争激化の自動車産業で勝ち残ってきたのです。
弊社の戦略はいかに。
何を捨てるのか。
もう一度、じっくり考えてみたいと思います。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%BA%E3%82%AD_(%E4%BC%81%E6%A5%AD )
ホームページの会員登録システム
私はホームページについての様々な勉強会に参加してきました。
私一人だけで参加したこともあれば、Webスタッフのメンバーと一緒に参加したこともありました。
参加した勉強会やセミナーでいつも言われていたことは、会員登録のシステムを作ったほうが良いですよというアドバイスでした。
今回、Webスタッフがいろいろ試行錯誤の上で、試験的というかとりあえず、会員登録をすると様々なサービスが受けられるシステムを作ることができました。
勉強会やセミナーでは、しきりと名簿獲得のためや集客のためと強調していましたが、弊社の目的は少し違います。
純粋にそれを利用されるお客様が使いやすいようにという目的で作りました。
お客様の満足度を優先したものを作りたいと思ったからです。
まだまだ未完成で改良の余地が沢山あるため、試運転中と告知させていただいています。
お客様からも広くアイディアを募集したいと思っています。
そして、そのアイディアを生かして、徐々にアップグレードしていく予定です。
弊社のホームページはお蔭様で、そのアクセス数は一日2000アクセス、月間6万アクセスを超えるほどになりました。
PVにおいては、月間80万PVを数えるほどになりました。
集客の限ればある程度、結果が出てきたと言っても良いと思います。
しかし、肝心なことはどれだけお客様が満足し喜んでくれているかということでしょう。
その点については、まだまだこれからだと自覚しています。
より観やすい、使い易い、そして楽しめるホームページを目指していきたいと思います。
すべてはお客様のために。
不動産販売の不思議
不動産販売をしていると不思議なことに出会います。
理論的に説明することができないことが沢山あるのです。
その一つは今まで長い間、反響がなかった物件に、あるときある瞬間から問い合わせが重なるという珍現象があるのです。
今までまったくといっていいほど反響がなかったのにです。
重なるのが不思議なのです。
そのチャンスを逃してしまうと、その物件は再び長いトンネルに入ってしまうのです。
また再び、反響が全くといっていいほどなくなります。
この繰り返しなのです。
おそらく不動産の売買にも「旬」というものがあるのでしょう。
よく不動産は高額なものなので衝動買いはないとか、じっくり考えて買うものだとか言われています。
しかしそうでない人もいます。
衝動買いする人もいれば、極端な人は物件を直接見ないで買う人もいます。
購入して直ぐに売却する人もいます。
2件どころか3件、4件と別荘を買う人もいます。
以前、小泉元首相が国会の答弁で「人生いろいろ、議員もいろいろ」と言って笑わせたことがありましたが、まさに「お客様もいろいろ」なのです。
これからもいろいろなお客様との出会いを楽しみにしていきたいと思います。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E7%94%9F%E3%81%84%E3%82%8D%E3%81%84%E3%82%8D
マラソン世界新記録に思う
ベルリンマラソンで男子の世界新記録が誕生しました。
2時間3分38秒という驚異的な記録です。
ケニアのマウイという選手ですが、ベルリンマラソンは2連覇、前世界記録も同じケニアの選手のものでした。
先の世界陸上でも長距離走では、男女共にケニアの選手が大活躍。
まさにケニア黄金時代到来の予感がします。
私は高校時代に2回、全国高校駅伝に参加したことがあり、勉強をほったらかして毎日、馬のように走ってばかりいました。
その当時、世界のマラソン界では日本勢が大活躍している頃でした。
早稲田の瀬古選手、旭化成の宗兄弟がまさに世界のトップランナーだったのです。
高校3年のとき、夏の合宿を長野県諏訪市の霧ヶ峰高原にある日本陸連の合宿所で行いました。
そのときになんと、当時、早稲田大学に在住する「瀬古利彦」選手と一緒になったのです。
間近に見た瀬古選手は、まさに流れるような美しいランニングフォームで私の横を走り去っていきました。
それまでは世界のマラソンランナーで大成した人は皆、長身で痩せていてしかも長足なのが常識でした。
かの五輪2連覇のアベベしかり、ミュンヘン五輪覇者のフランク・ショーターしかりです。
しかし、瀬古選手はどう見てもそれほど背は高くなく、しかも胴長短足。(瀬古選手御免なさい!)
その姿は衝撃的であり、同じような体型である私にとってはまさに希望の星であったのです。
その瀬古選手や同郷の中山選手、それに続く五輪銀の森下選手、世界陸上金の谷口選手が引退した後、マラソン日本という代名詞は徐々に廃れてしまうこととなってしまったのです。
このままケニア勢の独走を許してはいけません。
マラソンン日本の復活を期待したいと思います。
http://sportsnavi.yahoo.co.jp/other/athletic/headlines/20110925-00000064-jij-spo.html
ゆっくりと流れる時間
信州の松本で仕事を終えて、同じ信州の飯田に移動することになったときのことです。
信州こと長野県は南北に長い県として有名です。
昔よく「馬の小便」と比喩されたことを思い出しました。
松本から飯田に行くのにアクセスがなんて不便なことでしょうか。
高速バスが一番速いということだったのですが、松本駅からだと一旦、松本インターチェンジのバス停まで移動して飯田行きのバスを待たなければいけないとのこと。
携帯電話を使って飯田行きの最短時間のアクセスを調べると、JR特急あずさで岡谷駅まで行き、そこから豊橋行きの普通電車で飯田へ行くのが一番速いことがわかりました。
岡谷から飯田まで実に36駅、数時間かけて行くことになったのです。
高校生の頃に、駅伝などの大会に出場するために利用して以来の、伊那路の普通列車の旅を楽しみました。
木々の緑は美しく、狭いところを走るので、列車にその木々が触れたりするところが、まさに田舎を思わせるのです。
普段、目が回るほど時間に終われて仕事をしている私でしたので、まさに時間が止まったような感覚に包まれました。
新幹線や特急あずさとはまったく違った、のどかでのんびりとした旅となったのでした。
途中で南アルプスの雄大な姿を観ることができました。
そして、珍しい赤い蕎麦の花畑にも遭遇しました。
白い蕎麦の花は見慣れていましたが、真っ赤な蕎麦の花を見るのは初体験。
思わぬサプライズのプレゼントを頂いた気分になりました。
飯田の街は何回か来たことはありましたが、JRの飯田駅はやはり初めてのことでした。
たまには田舎時間で移動し、田舎の風景を眺めながらひと時も良いものですね。
福沢諭吉の祖先は
長野県茅野市豊平に「福沢区」という場所があるそうです。
この場所が福沢諭吉の先祖がいたところとして知られているというのです。
福沢諭吉は先祖のために1873(明治6)年に東京で建てた記念碑に「福沢氏の先祖は信州福沢の人なり」と記しているそうなのです。
福沢が長野県内のどこを指すかは分かっていないそうですが、この茅野市福沢区説は有力だとか。
戦国時代にこの福沢地籍に屋敷を構えた太郎左衛門善徳が、福沢諭吉の先祖の可能性があると思われているからです。
善徳は武田勝頼の軍に参加して、鳥居峠(塩尻市・木曽郡木祖村境)で木曽義昌軍に敗れた後、松本を治めていた小笠原氏に仕え、小笠原氏と共に大分の中津へ移り住んだというのです。
福沢諭吉の父・百助は中津藩に仕えており、つながりがあるみられているのだとか。
弊社「日本マウント」のビジネスでも、今年の信州は何かと話題です。
NHKテレビ小説「おひさま」の影響もあり、安曇野が大ブレーク。
この安曇野の別荘販売を始めてまだわずか1年半くらいですが、本当に沢山のお客様のお問い合わせを頂きました。
そして、この秋からはまさに福沢諭吉の先祖がいたというという茅野市、そして近隣の富士見町、原村に力を入れていくことになりました。
今年やはり大ブレークした、八ヶ岳の近くということもあり、かねてから力を入れたいと考えていた場所でもあるからです。
今から準備して、来年のシーズンには大ブレークすることを期待します。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E6%BE%A4%E8%AB%AD%E5%90%89
もう少し工夫して欲しいこと
地方のあるホテルでのことです。
どちらもその地方では老舗の一流ホテルだと思うのですが、少し工夫して欲しいと思うことがありました。
一つは朝食バイキングのことです。
野菜サラダを選ぶコーナーで種類が多いのは良いことなのでしょうが、お客様が選んだりお皿に盛り付けるのに時間がかかってしまい、待っているお客様の列が渋滞になってしまうのです。
他の食品との並べ方が悪いので、その他のコーナーは空いているのに、この場所を通ってから他のコーナーに行くような動線を作ってあるのです。
待たせれているお客様がイライラしている雰囲気が伝わってきます。
もう少し工夫が欲しいものです。
二つ目は別のホテルでのことですが、パソコンに繋ぐLANケーブルの件。
このホテルでは机についていないのです。
テレビの横についているのです。
不思議なのはその近くには机もなく、コンセントもないのです。
いったいどうやって使うのでしょうか。
これにはもう笑ってしまいました。
私は仕方なくテレビをどかして、そこにパソコンを置き、冷蔵庫のコンセントを抜いてそれを使いしました。
お客様が使うことを考えて設置したとは思えないのです。
これが地方の老舗ホテルの基準なのです。
サービスの本質をもう一度考えて欲しいと思いました。
そうでなければ、益々、地方は廃れていってしまうでしょう。
力がある者が勝ち、やがて全国展開し、地方の老舗は滅んでいく歴史が、あらゆる業界で進んでいってしまうのです。
もう一部のビジネスホテルチェーン店の方が、ある意味サービスが上かもしれません。
負けるな!地方の老舗や一流と言われてきたホテルよ!
そう叫びたくなりました。
天才料理人
天才料理人「米田肇」さん。
ミシュラ三ツ星の凄腕です。
驚くのは開店からわずか1年5ヶ月でそれを極めたことです。
さらに驚くのはその経歴です。
高卒後、電子工学を学び、コンピューター関連会社に就職。
夕食代を200円に切りつめ、トイレットペーパーを節約するために会社で用を足すなどして、2年間で600万円を貯めて、大阪の料理学校で1年学んだ後、料理の世界に飛び込むのです。
26歳の時だったそうです。
その後、日本での修行中も、その後のフランスでの修行中も、けして順風満帆とはいかず、むしろ数々の試練を悪戦苦闘しながらも乗り越えて、遂にミシュラン三ツ星に至るのです。
そのミシュランがコース前半の野菜料理を「パレットのように彩り豊か」と絶賛したというのです。
「地球からの人へのメッセージ」とメニューに書き添えたこの料理は、まるでデッサンなしにキャンバスならず大皿に色とりどりの野菜ピュレと生野菜、温野菜で模様を描いていくものなのです。
頭の中の配置から0.5ミリでもずれたら、すべてをやり直すというのです。
「100マイナス1は、99じゃありません。ゼロなんです」。
「三ツ星は取れると思っていました」。
自らの料理の腕と美意識に自負がある、天才「米田肇」さんは淡々とした口調で語ったそうです。
天才は天才たる理由があるのです。
この料理、一度、味わってみたいものです。