箱根駅伝でのある風景
箱根駅伝は早稲田と東洋の一騎打ちで、素晴らしい盛り上がりを見せるなか、日本全国の話題を独占しました。
その箱根駅伝で、ある印象的なシーンがあったのでご紹介したいと思います。
山下りの6区でのことです。
早稲田の選手と東洋の選手が抜きつ抜かれつの大接戦をしているときに、その両選手がそれぞれの監督から給水を受けたときのことです。
給水後そのボトルを両選手とも道路に投げ捨てたわけですが、東洋の酒井監督がすばやく自分の大学の分だけでなく、早稲田の選手の分まで拾ったシーンがありました。
もちろん、早稲田の渡辺監督もすぐ拾おうと振り返ったのですが、既に東洋の酒井監督の手によって、早稲田の選手の分は片付けられていたのです。
このときの酒井監督の行動に感動しました。
流石、3連覇を目指してトップを争う大学の監督であると思ったのです。
このときにアトランタオリンピックの女子マラソンで有森選手の取ったある行動を思い出したのです。
自分で飲んだ給水のボトルを道路に捨てるとき、道路わきにそっと捨てるという行動を取ったのです。
その動機は、おそらく後から来るランナーの邪魔にならないようにという配慮からなのでしょう。
この行為が世界のメディアで賞賛されたのでした。
勝負の世界やその土俵でも、思いやりや優しさ、礼儀というものがあるのだと思うのです。
強いものは例外なく思いやりがあり、人に優しく、礼儀作法に優れていると思うのです。
弊社「日本マウント」も、そんな社員の集団でありたいと思いました。
新春の箱根駅伝での、もう一つの素晴らしい風景に出会えたという話でした。
駅伝の結果に思うこと
正月恒例の箱根駅伝は、早稲田大学が18年ぶりの総合優勝で幕を閉じました。
猛追する東洋大学を辛くも振り切っての優勝は、先に行われた「出雲」「全日本」の優勝と合わせての三冠で、これも10年ぶり史上3校目の快挙だそうです。
往路優勝、そして2位だった東洋大学も優勝すれば3連覇の偉業だっただけに、まさに世紀の対決だったといっても過言ではない好勝負でした。
両者共に大会新記録という好記録でもありました。
しかもその差はわずか20秒という差だったのです。
20キロメートルを10人で繋ぐ2日間の戦いの決着は、わずか20秒しか差がつかなかったのです。
しかも2位だった東洋大学は4人が区間賞だったのに対して、優勝した早稲田大学の区間賞はたったの一人だけだったのです。
まさに紙一重の差で勝敗が分かれたといってもいい結果だったと思うのです。
僅かの差で両者の立場は逆転していたかもしれないのです。
早稲田には運があったかもしれません。
しかし厳しいようですが、勝負の世界は結果がすべて。
運も実力のうち。
これからはこの「運」ということも大事になってくるのかもしれません。
どうすれば「運」に恵まれるのか。
「運」を引き付けることができるのか。
「運」を呼び込むことができるのか。
元旦に行われた全日本実業団駅伝の結果も、最後の数百メートルを3者で争う激戦の末、トヨタ自動車が富士通を数秒でかわして初優勝を飾りました。
この結果も1位から3位までは、まさしく紙一重の差だったわけです。
元旦のサッカー天皇杯の結果も1点差の僅差での決着でしたし、独断と偏見ですが大晦日の紅白歌合戦の白組の勝利も僅差だったような気がします。
いずれにしてもこれからは、紙一重の差で勝敗が決するような時代だということでしょう。
今日の僅かな努力がその紙一重になるかもしれませんし、ほんの僅かな運の差がやはりその紙一重になるかもしれないのです。
箱根駅伝の結果を見て、ふとそんなことを感じたのでした。
駅伝
今日と明日は箱根駅伝があります。
すっかりお正月の風物詩になったきらいがありますが、今年も数々のドラマを見せてくれるでしょう。
弊社の新しい事務所は、品川駅近くの第一京浜道路沿いにありますので、もし営業中であれば窓からその雄姿を見ることが出来たのに残念です。
さて駅伝ですが、実は私も高校時代には駅伝の選手として2回ほど全国高校駅伝に出場したことがあります。
京都の都大路を襷をつないで突っ走りました。
先日もテレビでその光景が放映されていたのを見て、とても懐かしく思いました。
私は大学に入学すると同時に走るのをやめてしまいましたが、一緒に京都を走ったメンバーのうち二人は、その後箱根駅伝でも活躍しました。
今にしてみれば懐かしい思い出です。
中学、高校時代は、部活動に熱中していたという記憶しかありません。
職業が走ることで、趣味が勉強といっても過言ではない生活でした。
明らかに自分の中で優先順位がそうなっていたのです。
ですから高校進学も、毎年、京都で行われる全国高校駅伝大会出場を狙えるところというのが選択基準だったのです。
以前のブログで書いた「ワタミ」の渡邉美樹さんが、将来、社長になるための大量の本を読むために、大好きな野球を封印し野球部に入らなかったのとは対照的な青春時代だったわけです。
当時は将来、体育大学に進学して教師となり、陸上部の顧問をやって立派な選手を育てたいなどと真剣に考えていたほどです。
しかし今はこうして東京で不動産会社の社長をしているのですから、人生というのは本当にわからないものです。
ただ、少なからず言えるのは、あの頃に一つのことに熱中した経験というものが現在の仕事にプラスになっているに違いないということです。
目の前のことにベストを尽くす。
それがいかに大切なことか、この駅伝のシーズンを迎えるたびに思うことです。