九州の時代到来か
先週末に九州へ行ってきました。
羽田空港から約2時間で福岡空港へ。
帰りは気流の関係もあってか、約1時間20分。
弊社は品川にありますので、羽田空港は目と鼻の先です。
同じく先週に新幹線で行った仙台や神戸も近かったのですが、九州ももはや遠い場所ではありません。
信州の松本の先、安曇野や白馬に行くのとそれほど変わらないといっても過言ではないでしょう。
そんなときふと目にした「日経ビジネス」という雑誌。
九州特集の記事がありました。
いまだ根強い邪馬台国の九州伝説。
明治維新を境に、福沢諭吉や大隈重信など数々の偉人を輩出した九州。
最近の経済人でも、京セラの稲盛さんやソフトバンクの孫さんを始めとしたそうそうたる面々。
博多駅の駅ビルの集客力が話題となり、キャナルシティのテナント誘致に業界の関心が集中しています。
九州は時代を先行するといわれて、私も過去に経営セミナーなどで九州の店舗を見学したことを思い出しました。
これから世界はアジアの時代を迎えるというのは、もはや世界の常識です。
そうなれば、中国や韓国、台湾、香港、シンガーポールなどに近い地理的に有利なのは、まさしく九州なのです。
確実に来ることが予測される、関東や東海地方の地震。
いまだ予断を許さな福島原発問題。
未来戦略の一環として、本社を九州に移す会社も急増することが予測されるそうです。
そういえば、弊社の大切なお客様で、種子島の物件を競売で落札して転売したいという方がいました。
なるほど、まさしくこれからは九州が脚光を浴び、主役の座に躍り出るのはまんざら嘘ではなさそうです。
弊社もいよいよ九州進出ですか!
おひさま
NHKの連ドラ「おひさま」。
ついつい毎朝、見入ってしまいます。
主役の須藤陽子を演じる井上真央の迫真の演技もさながら、他の役者さんもそれぞれ見事にその役を演じきっており、普段まったくテレビを見ない私にしては珍しくはまってしまっています。
何よりも子役の演技が素晴らしい。
泣いたり笑ったり、その表情に感動しています。
元々は、弊社「日本マウント」で売買仲介している別荘がある場所が信州の安曇野だったことがきっかけとなって見始めたのがそもそも運の尽きでした。
完全にはまってしまいました。
考えてみればこの物語は、そう遠い過去の話ではないのです。
もう他界しましたが、私の父は昭和9年生まれで、まだ健在の母は昭和11年生まれです。
ちょうど陽子先生の生徒と同じくらいでしょうか。
私の両親は、あのような環境であのような学校生活を送っていたのです。
両親とも安曇野ではありませんが、信州生まれの信州育ちですので、あのドラマでの光景がけして人事のように感じられないのです。
なんだか不思議な感じがします。
両親は大変な時代を生き抜いてきたのです。
そんなことを考えるとつい感情投入してしまい、思わず力が入ってしまうのです。
また、時折見られる安曇野の自然の美しさは格別です。
まったく変わらない同じ美しい安曇野が、今の時代に現存するのです。
何と素晴らしいことでしょうか。
そんな美しい安曇野というリゾート地にある別荘を、自信を持って胸を張って紹介していきたいと思います。
芸能人との遭遇
東京で仕事をし東京に住んでいると、数々の芸能人や有名人と思わぬところで遭遇することがあります。
これは恐らく地方にいる人よりも圧倒的にその確率が高いと思うのです。
普段は真面目なことしか書かない?ブログですが、今日はちょっと一休み。
私の芸能人や有名人との遭遇記録を披露します。
すべては書ききれないので、印象に残ったものだけにします。
また、あくまでも偶然の出会いだけに限定します。
最初に特例として、対面でしっかりと話をした芸能人は、女優の山本陽子さんとたけし軍団の松尾伴内さんです。
東京駅でかの有名な叶姉妹。
同じく東京駅の喫茶店で歌手の堀内孝雄さん。
新幹線のグリーン席で歌手の北島三郎さん。
大井町の駅のホームでお笑いタレントの石塚英彦さん。
銀座のある店で俳優の神田正輝さん。
ある花火大会の会場で俳優の高橋英樹さん。
地下鉄の電車の中でプロ野球選手の石井逐朗選手とその家族。
新橋の交差点で早稲田大学駅伝部監督の渡辺康幸さん。
大森のサウナで格闘家の角田信朗さん。
そして、最後も特例ですが、この人を忘れてはいけません。
元アイドル歌手グループ「ブスッ子くらぶ」の新川てるえさん。
ツイッターで出会い、那須高原の別荘を案内させていただき、気に入った別荘を購入してくださいました。
今も、ブログやツイッターでの交流を重ねています。
これからもおそらく遭遇するであろう数々の出会い。
今から楽しみです。
上司に恵まれるとは
いかにいい上司恵まれるかは、今後の社会人としての運命を決める。
果たしてそうなのでしょうか。
また、いい上司とはいったいどんな上司のことをいうのでしょうか。
上司ではありませんが、私の中学校の担任の先生は、面倒見がいいとか、教え方が素晴らしいというわけではありませんでした。
むしろどちらかというと、ぶっきらぼうで冷たい感じのする、よくテレビドラマに出てくるような熱血的な教師とは対極の教師といってもいいくらいでした。
中学二年の冬に、ある進路に関するアンケート用紙が配られて、そこに将来希望する大学を記入する欄があったのですが、まだ中学生の私は日本にいったいどんな大学があるのかもわからないまま、地元の国立大学名をとりあえず書いて提出したのです。
そのとき、その大学名を見た担任の先生は一言、
「笑わせるんじゃねえ」。
その一言で私の闘争心に火がついたのでした。
「いつかあいつの鼻を明かしてやる」。
それから猛勉強をし、成績はうなぎのぼりに上がりました。
ついに高校進学のとき、当時、陸上競技の長距離走に青春のすべてをかけていたこともあって、その地方一番の進学校ではなく、陸上の名門校へ進学したいと思っていたのですが、担任の先生はその一番の進学校への進学を強く勧めたのです。
熱心な勧めを断って、陸上名門校に2番の成績で合格した私は、その後2回の全国高校駅伝の出場を果たしました。
変わって、社会人となって数年経ったころのことです。
今の常識では考えられない暴力上司に出会いました。
空手の黒帯であったその上司は、鉄拳制裁は当たり前で、まさに毎日が恐怖の連続でした。
実際に流血したり、骨折したり、今の時代ならパワハラで社会問題になるようなことばかりでした。
その後、私は不動産業界に足を踏み入れて、バブル時代には物件を占有するヤクザと渡り合ったりしましたが、恐怖心を持つことも無く堂々と交渉することができました。
他人が経験しないようないろいろなことを経験しましたが、よほどのことでもないかぎり、動揺することはありませんでした。
人生は何が幸いするかわかりません。
今、自分の人生を振り返ると、あの中学校の担任の先生と暴力上司に感謝している自分がいるのです。
その当時は少なからず恨んだり憎んだり、少なくとも好きではありませんでした。
しかし、もしあの二人に出会っていなかったらと思えば、私の人生はもっとひ弱な違った人生になっていたと思うのです。
いい上司とは、そのときは意外とわからないものなのです。
二度寝はしない
私は基本的には二度寝はしなことにしています。
朝、目が覚めたら必ず起きることにしているのです。
ブログを書いて一時間ウォーキングすることにしています。
雨が降っていたら半身浴です。
これが日課となっています。
だいたい毎日午前4時前には目が覚めます。
そこで絶対に二度寝をしないのがポイントなのです。
少し早いかなと思っても起きてしまうのです。
流石に午前3時前に目が覚めたときは別ですが、3時頃のときはそのまま起きてしまうことにしています。
会社には7時前には出勤します。
そして夕食は食べないことにしています。
小腹が空いたときは、なるべく早い時間にパンを一口か二口。
そのかわり朝食と昼食はしっかりと食べることにしているのです。
そして全力で仕事をし、終わる頃にはへとへとになります。
だから夜は早く寝れます。
不眠とか寝つきが悪いということとは無縁です。
そして朝の目覚めも快適ですし、目覚まし時計はいらなくなりました。
これが、私の健康法です。
人生は平等である
今や日本を代表する名経営者となった、ソフトバンクの孫正義さんと楽天の三木谷浩史さんには、いくつかの共通点があります。
一つ目は、二人とも仕事が楽しくてたまらないそうなのです。
「こんなに面白いものは無い」
「ゲームのようだ」
二つ目は二人とも初期の頃から、売上や総資産などの経営数値で「兆」という単位を意識し、なおかつ公言していたのです。
孫さんは、豆腐を一丁二丁と数えるように、売上を一兆二兆と数えるようになるんだと公言していました。
三木谷さんは、10年後には総資産を一兆円にして、そうなったら一丁あがりと言って現役を引退するとやはり公言しているのです。
いずれもそれを聞いていた当時まだ数少なかったスタッフは、ぽかんとして開いた口が塞がらなかったほど驚いたというか、何を言っているのかよくわからなかっとそうです。
三つ目は、創業時にはどれくらい働いたのかという質問に対して、なんと二人ともまったく同じこと答えをしているのです。
「一年365日、一日26時間」。
一日で26時間は物理的には不可能です。
おそらく死ぬほど働いたとか、メチャクチャ働いたとかという自負が26時間と言わしめたのでしょう。
ワタミグループの渡邉美樹さんも、起業のための軍資金を貯めるために佐川急便で働いた一年間は、寝たのは車を運転中に赤信号で止まったときだけだったと言っています。
これも物理的には不可能でしょう。
やはりそう表現できるくらい、働いたということなのです。
それ相当の成功は簡単には手に入らないのです。
棚からぼた餅やラッキーパンチを期待しない方がいいのでしょう。
そう考えれば、人生は平等なのかもしれません。
節電に慣れてきました
震災以降、節電の習慣にどうやら慣れてきたようです。
計画停電や停電を回避するために節電していたのが、今や当たり前になってきました。
当初はコンビニの看板の電気がついていないことに違和感があったり、店が閉まっていると勘違いしたりしたのですが、今では当然のように感じるのです。
オフィスでも同様です。
消灯癖がついたり、多少暗くても当たり前のように感じます。
考えてみれば、江戸時代は電気がなかったわけです。
日の出とともに起きて、夕陽が沈むとともに寝るという健康的な生活をしていたのでしょう。
また、ろうそくの灯を囲んで大家族が仲良く力を合わせて生活していたのでしょう。
今までが当たり前なのではなく、今が当たり前なのかもしれません。
今までは無駄が多く、贅沢すぎたのでしょう。
文明や科学の進歩が必ずしも人間を幸せにしたとは限らないと思うのです。
1000年に一度といわれる今回の震災は、およそ2万5000人もの尊い命を一瞬にして奪い去りました。
しかし、それと同じ数いやそれ以上の数の人間が、1年間に自らの手でその尊い命に終止符を打っているのです。
そうです、日本は世界有数の自殺大国なのです。
私たちはこの事実をしっかりと直視しなければならないのだと思います。
震災を契機に何がどう変わったのか。
いずれこのことが問われる日が来るのでしょう。
私たちは必ず変わらなければならないのです。
35年前の記録
インターネットで自分の名前を検索していて見つけた記録でした。
中学生のときの2000メートル走の記録。
長野県の諏訪地方の記録で、諏訪記録と題されていました。
諏訪市、岡谷市、茅野市、下諏訪町、富士見町、原村の6市町村を合わせて諏訪地方といいます。
1976年の記録ですから、まさしく35年前の記録なのです。
嬉しいような恥ずかしいような。
しかし35年前の記録と名前が残っていること驚きでした。
これもインターネットによる恩恵なのでしょうか。
もしインターネットがなければ、私がこの事実に気がつくこともなかったことでしょう。
それにしても、インターネット恐るべし。
過去の記憶をよみがえらせ、当時の嬉しかったことや苦しかったことを思い起こさせてくれました。
当時はまさに青春真っ盛り。
勉強もしないで走ることに明け暮れていた毎日でした。
その後に高校に進学して、2度の全国高校駅伝への出場。
京都の都大路を走りました。
私は大学進学と同時に走ることを止めてしまいましたが、同僚は二人、箱根駅伝を走りました。
今では懐かしい思い出です。
パソコンを前にして毎日仕事に明け暮れていたときの、つかの間のタイムスリップをした楽しいひと時でした。
桜前線
日本の国花はご存知の通り「桜」です。
桜の花は開花してから、ほぼ一週間で散ってしまいます。
花の命は短いとはよく言ったものです。
だからなのでしょうか、桜の花の美しさは、どの花よりもひときわ美しく感じてしまうのです。
今年は震災の影響で派手なお花見は控えて人が多かったようですが、かえって静かにじっくりと観賞することができたのではないでしょうか。
日本という国土は南北に長いので、桜が開花する時期がそれぞれ違います。
また狭い地域でも山があり標高差があるところが多く、場所変えれば二度三度と桜を楽しめることができるのです。
私も東京で桜を楽しんだ後に、仕事で訪れた信州松本で再び、満開の桜を堪能することができました。
そのときは、その松本から少し離れたやや標高の高い麻績村(おみむら)や美麻村(みあさむら)では、まだつぼみでしたので恐らく今頃が満開なのでしょう。
さらに北で標高が高い、大岡や戸隠高原、飯綱高原などはさらに満開の時期がずれるのです。
狭い国土でも南北に長く、しかも標高差がある日本という国。
その国花としての桜。
そして移動する桜前線。
なんとも不思議な気がします。
被災地でも津波の被害を乗り越えて、見事に咲き誇った桜があったとの話を聞きました。
日本人はどんな困難や艱難に遭遇しても、雪や寒さの厳しい冬に耐えて春に咲き誇る桜を見ては、慰められ励まされて、再び希望を見出して前進してきた民族だったのでしょう。
今年ほどその桜が美しく感じた年はありませんでした。
偉人の母
かなり昔のことですが「偉人の母」という本を読んだことがあります。
歴史上の偉人は、そのほとんどが母が素晴らしい人だったという内容でした。
盲目のピアニストとして、もはや世界的に有名となった「辻井伸行」さんも例外ではありません。
やはりその母である「辻井いつ子」さんが素晴らしい人だったのです。
いつ子さんが、伸行さんの音楽の才能に気付いたのは、生後8ヶ月のことだったそうです。
伸行さんはショパンの「英雄ポロネーズ」がお気に入りで、毎日CDを聞いては手足をばたつかせて大喜びをしていたとか。
ある日、CDが傷ついたので買い換えると、途端に伸行さんの機嫌が悪くなってしまったそうです。
そのとき、「同じショパンの英雄ポロネーズをかけているのに、どうしていつものように上機嫌にならないのだろう。もしかして演奏家が違うからではないか」と、ひらめいたのだそうです。
なんと、伸行さんは演奏家の違いを聞き分けていたのです。
それを見抜いた母だったわけです。
でもすぐにピアニストにするつもりはなかったというのです。
いろいろなことに興味を持たせて、最後に残ったのがピアノだったのです。
子どもが何が好きなのか、その素直な気持ちを優先させることに時間をかけたというのです。
「盲目ではピアノなんて無理だ」と何人からも言われたそうです。
しかし、いつ子さんは常識や先入観をすべて取り払って、子どもの可能性を信じきります。
子どもの「好き」に対して、親は完全な支援者であっていいと言い切るのです。
そして、褒めることを以って、伸行さんの才能を開花させていくのです。
「伸りん、頑張った。すてきな演奏だった。もっと聞かせて。もっと上手になって」と。
あるコンクールで参加者のお母さんが「どうして間違えたのか」等々、こどもを厳しく叱っていたそうです。
そのやり取りを聞いていた伸行さんはこう言ったそうです。
「僕がお母さんにああ言われたら、ピアノを嫌いになっていたかもしれないね」。
今ではお母さんの付き添いがなくても、一人で海外に行き活躍を続ける、世界的ピアニストとなった伸行さんなのです。