岡本太郎
出張で宿泊したホテルで偶然に観たテレビ番組。
岡本太郎の一生を描いたドラマでした。
大阪万博の象徴であった「太陽の塔」はあまりにも有名です。
奇抜なカタチをしたその巨大な塔は、当時、一般に人にはなかなか理解できないものでしたが、世界と歴史は素晴らしい芸術として評価したのです。
まさしく、岡本太郎は天才だったのでしょう。
偉人や天才には必ずといっていいほど、陰ながら支えた女性の存在があります。
それが母親だったり妻だったり、あるいは愛人だったり、人それぞれではありますが、そういう女性が存在していたことは数々の歴史が証明しているのです。
この岡本太郎もまた例外ではありませんでした。
秘書であり、後に養女となる「敏子」がその人です。
天才「岡本太郎」は、この敏子さんの存在なくしては語れません。
文字通り、二人三脚の活躍で、その作品を世に残し、数々の偉業を成し遂げていくのです。
晩年の病気や挫折の際にも、この敏子さんの支えがあって、乗り越えていくのです。
人間は一人では生きていけません。
そして、ある意味、弱いものです。
孤独はたとえ天才とて乗り越えることができない、最大にして最強の敵なのです。
だからこそ必要なのが、たとえそれぞれ立場は違ったとしても、その天才を生み変え育むことができる女性であり、その力なのだと思うのです。
そのことを、このドラマを観て強く感じたのでした。
再会のときには
最近、十数年ぶりにある人と再会することができました。
予期せぬ再会でしたので、びっくりしました。
不覚にも、私は最初は気付きませんでした。
相手の人から指摘していただき、みるみる記憶がよみがえってきたのでした。
元気そうでしたし、確かに苦労もあったことでしょうが、今は幸せそうに見えたのでこちらも嬉しくなりました。
と同時に、相手の目には私はどのように映ったのか気になったのです。
人生にはいいときもあれば悪いときもあるでしょう。
しかし、たとえ山谷があったとしても、少しずつでも良くなっているのが理想だと思うのです。
それこそ十数年ぶりに再会したときに、成長してとか立派になったとか思ってもらえる自分になっていることに、人生の醍醐味を感じるのです。
少なくとも、私はそんな人生を綴りたいと思います。
落ちぶれてしまったとか、輝きを失ってしまったとかと思われるような下降線はたどりたくありません。
過去の栄光にすがる姿こそ惨めなものはないのです。
昔の自慢話ほど聞きたくない話はないのです。
常に未来を見つめて、前進する。
そして、日々たとえ少しでも成長する。
そんな人生を歩みたいと思いました。
最近、十数年ぶりという再会が多いのは、私が成長するための良きプレッシャーになっているような気がします。
過去を振り返らず、絶えず前を見て、日々、ベストを尽くしたいと思います。
Sさんのその後
昨年の弊社の忘年会で突然、乱入した元社員のSさんのことは、以前にこのブログでも書きました。
実は、私は3代目のサラリーマン社長。
4年前と少し前の3月に入社したときの同僚がそのSさんなのです。
他社での過去の実績を認められて、直ぐに抜擢されて、その後約6ヶ月間は私の直属の上司でもありました。
そのときはやる気満々で威勢ががよく、後から入ってきた新人をよく怒鳴りつけていました。
その後、実績が上げられず、勤務態度にも問題があり辞めたのですが、一度、復帰してまた辞めるという、なんともちぐはぐな人生となってしまうのです。
そして、昨年暮れの忘年会での突然の乱入。
変わり果てたその姿は、誰もが浮浪者と見間違うほど、落ちぶれた姿になっていました。
そのときに、また今度食事でもいう約束をしたことを、このSさんはしっかりと憶えていて、その後、何回も電話で誘ってきてくれたのです。
こうして実現した久しぶりの再会。
その姿はさらに落ちぶれたものとなっていました。
4年という歳月で、人間はこれほどまでに変わるのでしょうか。
まるで映画かドラマで、過去の回想のシーンからいきなり何十年後かの現代のシーンへ移ったかのような変わりようなのです。
食事の間中、過去の自分の自慢話と他人の悪口ばかり。
お酒を飲み続け、食事にはほとんど手をつけず。
気持ちの持ち方と食生活で、人間というものは、わずか4年間でこんなにも変わってしまうものなのでしょう。
もう、反面教師にするしかないのでしょうか。
また会う約束をして別れたのですが、その後姿は惨めなものでした。
明日は我が身。
自慢は傲慢であり、傲慢こそ滅びの入り口なのです。
そして、他人の悪口は、やはり自滅の始まりなのです。
肝に銘じたいと思います。
憂鬱でなければ、仕事じゃない
「憂鬱でなければ、仕事じゃない」。
ある本のタイトルです。
この本はアメブロで有名なサイバーエージェントの社長「藤田晋」さんと、出版社で有名な幻冬舎の社長「見城徹」さんの共著です。
久しぶりに何回も読み直したい本に出会いました。
私には少しずつ増えている、年に何回か読み直している、いわゆる私の「バイブル」や「教科書」があるのです。
その中に加わる一冊となりそうなのです。
著者二人の共通点は、恐ろしいまでに積み重ねたその努力。
数々の修羅場を越えてきたその生命力です。
見城さんは、石原新太郎さんと一緒に仕事をしたくて、その著書「太陽の季節」と「処刑の部屋」の全文を暗記して、初対面のときに本人の前で暗唱したというのです。
石原さんは、「わかった、もういい。お前とは仕事するよ」と言って苦笑したそうです。
やがてそのときの約束は、大ミリオンセラー「弟」として結実するのです。
藤田さんは、学生時代から営業のアルバイトで汗を流し、就職しても一日に4件以上のアポイントを取る激務を自らに課します。
その後、独立してからなんと1週間で110時間以上働いたというのです。
1週間40時間労働が普通の人ですから、じつの3倍働いたわけです。
そして、最年少の20代で上場するという成功を手中に収めるのです。
やがて、ITバブルが弾けた後に、凄まじい回収工作の攻撃をかわして生き残り、日本を代表するネット企業として成功を不動のもにするのです。
見城さんも角川書店を辞めて独立し、やがてやはり上場することに成功します。
そして、最近では上場廃止のMBOを仕掛けて、まさに崖っぷちの修羅場を見事に乗り切って、もうひとつの成功を手にしたのです。
異色の二人が解き放つ数々の魅力的な「ことば」の一言一言が、魂を揺さぶる読み応え十分の本です。
もしかしたら、本当に現代のビジネスマンの「バイブル」になるのかもしれません。
ぜひ一読をお勧めします。
父の日のプレゼント
単身赴任の私は、子どもたちに会えるのは、月に1回あるかないか。
今年は父の日にちょうど近くに出張だったので、家まで足を延ばすことができました。
小学校6年になる長男の、堂々と児童会長として頑張っている姿が眩しく輝いていました。
私が小学校の頃は、児童会長を困らせる筆頭といえる札付きの問題児で、親はいつも担任の先生や近所の人に謝ってばかりでした。
まさに子どもは私とは真逆の小学校生活を送っているわけです。
子どもを見るにつけ、人生とは不思議なものであると感じてしまいます。
そんな長男が私に送ってくれた、父の日のプレゼントは、習いたてのギターで演奏してくれた「コブクロ」の曲でした。
「わだち」。
粋なことをする長男です。
小学校4年になる長女のそれは、心を込めて折ってくれた鶴やあやめなどの作品の数々。
そして、心温まる励ましの手書きのメッセージ。
小さい頃、私がいつも2、3ヶ月ぶりに家に帰るとき、家の前で待っていて、私の姿を見ると走って抱きついてきたことを思い出しました。
もうすっかり大きくなり、かわいらしい少女になりつつあります。
人間は守るものがあるからこそ、強くなれるのだと思います。
私はまた少しだけ強くなって、ビジネス戦国時代の戦場に戻ってくることができました。
今をよりよいカタチにして、次の世代へ手渡すこと。
これが今に生きる私たちの使命だと考えます。
震災100日後
悪夢のような震災からちょうど100日が経ちました。
いまだに復興が進んでいるとは言い難い現実。
こんなときに首相交代をめぐってのドタバタ劇。
政治の信頼は地に落ちてしまったのでしょうか。
私の持論ですし、多くの人の待望論ですが、2世や社会運動家ではなく、創業オーナーで成功した人が、企業を切り盛りしてきたように、国や県、市などの自治体を切り盛りするのが一番いいと思うのです。
そこにはきっと甘えの構造などは存在しないのです。
保身や権力闘争などとも無縁の政治をしてくれると期待が持てます。
なぜならば、企業を発展させ、なお安定させて、永続する道筋を創り、後継者に継承させることがどれほど難しく、そこには考えられないほどの自己犠牲や自己否定があったに違いないからです。
企業も組織であれば、自治体もやはり組織であると思うからです。
なかなか進まない被災地の復興のことを思うと、ふとそんなことを考えてしまいました。
さて、少し残念に感じとことがひとつ。
震災100日後の昨日、東京は曇りで午後から小雨となり、比較的涼しい過ごしやすい一日でした。
お昼のパンでも買おうと、近くにコンビニへ行ったところ、中は冷房が効きすぎるほど効いていて、ガンガンに冷えていたのです。
買い物の時間は僅かでしたが、寒くてたまらないほどだったのです。
店員はなにも感じないのでしょうか。
本部の指導はどうなっているのでしょうか。
疑問を感じざる得ませんでした。
私たちは、この日本は3・11以降に変わったはずではなかったのでしょうか。
やはり「喉元過ぎれば熱さ忘れる」のでしょうか。
「人の振り見てわが振り直せ」ですね。
私も気をつけたいと思います。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1264692002
タリーズコーヒー2
昨日に続いてタリーズコーヒーの話をします。
タリーズコーヒーは、現在参議院議員となった「松田公太」さんが日本に持ち込んだのものです。
この松田公太さんがアメリカのシアトルで一杯のコーヒーに出会い感動し、シアトル中のコーヒーを飲み歩いて一番美味しかったと感じたタリーズコーヒーを何としても日本で紹介したいという情熱からスタートするのです。
アメリカの本社に何度アタックしても駄目だったので、当時のオーナーが東京にいるときに押しかけてその権利を譲渡してもらったのです。
しかも最初の出店資金は全額自分で借金をして用意をしたというのです。
もし失敗すればと考えて、当時のコンビニの求人のポスターを見て、一日15時間、35年間働けば返せないことないと自分に言い聞かせてスタートしたそうです。
1号店は銀座でと決めていたのですが、なかなかそんなに簡単には見つからない中で、広尾に見つかった物件で妥協しようとしたときに、銀座の物件情報を入手します。
電光石火の行動力で、不動産業界のしきたりを破って、直接、その不動産の所有者にアタックして気に入られ、広尾の物件で支払った手付金300万円を捨ててまでこだわった銀座に念願の1号店をオープンさせるのです。
そして自らコーヒーを入れて、レジでお金をもらうという文字通り最前線で働きます。
自ら市場調査するときは、銀座の1号店のときもそうでしたが、目当ての希望店舗候補の向かいの喫茶店に陣取り、朝から晩まで一日3回も注文を繰り返す中で、歩行者数を数えたりしたそうです。
そのようにして数店舗に増えるまでは、自らコーヒーを入れる仕事も続けたというのです。
その当時、まさかそのコーヒーを入れている人が、タリーズコーヒーの社長だと思った人はいなかったことでしょう。
なにせタリーズコーヒーは、スターバックスコーヒーと並んで破竹の勢いで店舗展開をし、やがて株式上場を果たすことになるからです。
銀座に1号店をオープンしてから4年後のことです。
いつも思うことは、成功した創業オーナー社長は凄いということです。
その決断力と行動力です。
しかもその速さです。
失敗を恐れずに果敢に挑戦します。
リスクは回避するのではなく、むしろリスクを選択するのです。
まさにそこに勝負の鍵があるかのようです。
タリーズコーヒーもそのようにして大きくなったのです。
タリーズコーヒーファンは確実に存在し、その出店のお誘いは、今や引く手あまただそうです。
タリーズコーヒーの今後の発展のみならず、政治家「松田公太」さんの活躍も期待されます。
タリーズコーヒー
信州の松本駅にスターバックスコーヒーがあります。
駅ビルにあるので、いつも沢山の人で賑わっています。
特急の発車時刻まで時間があるときに、暇ををつぶすために利用する人も多いかもしれません。
私も実はその一人です。
最近はおかわりが一杯100円だということがわかりましたので、いつも特急に乗り込む前におかわりし、そのまま特急に乗り込みます。
特急内の300円コーヒーとは格段の味の違いあるからです。
まだやったことはありませんが、東京に着いてその日のうちにスターバックスコーヒーに行けば、同じレギュラーコーヒーはやはり100円で飲めるそうです。
どの店でもおかわりは100円というのは、コーヒー党からすれば、なんともありがたいサービスのひとつです。
さて、松本駅の近くにタリーズコーヒーという店とドトールコーヒーという店がありました。
ありましたと書いたのは、ドトールコーヒーはいつのまにか無くなってしまったからです。
価格でいえばドトールコーヒーが160円くらいに対して、タリーズコーヒーは300円くらいですから、価格だけでは生き残れない厳しいビジネスの現実を教えてくれています。
安いだけに限れば、マクドナルドに行けば100円で飲めるわけです。
これは時代が成熟すると、いわゆる高価格帯と低価格帯に分かれて、中間は淘汰されるという現象なのでしょうか。
いずれにしても、ビジネスの手法でとしてよく言われる、定点観測がいかに大事であるかを教えられました。
私が注目するのは「タリーズコーヒー」です。
人それぞれですが、味や雰囲気はスターバックスより上だという人も多いのです。
確実にタリーズコーヒーのファンという人がいるのです。
現に立地の上では断然不利な信州の松本駅近くでは、ドトールコーヒーはなくなってもこのタリーズコーヒーはきちんと存続しています。
このタリーズコーヒーの日本での誕生秘話がありますので、明日またご紹介したいと思います。
上杉鷹山
上杉鷹山。
江戸時代の困窮する米沢藩を、その危機から救い、見事に建て直した藩主です。
元米大統領のJ・Fケネディやビル・クリントンが、最も尊敬する日本の政治家と言われたことでも有名です。
「成せば為る 成さねば為らぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり」。
これは誰もが知る、上杉鷹山の有名な言葉です。
「国家人民のために立てた君にし、君のために立てたる国家人民にこれなく候」。
今の日本の政治家やリーダーに、最も必要な言葉ではないでしょうか。
もし、上杉鷹山が現代に生きていたらと、つい考えてしまうのは私だけでしょうか。
首相が上杉鷹山だったら、果たしてどんな行動を取ってでしょうか。
恐らく、福島原発の近くで指揮を取り、そこで臨時国会を開催し、国会議員を招集したことでしょう。
自ら先頭に立って、また多くの議員やリーダーを引き連れて避難所を訪れて、一泊や二泊はその避難所で過ごしたことでしょう。
福島産や茨城産の野菜を率先してむしゃむしゃと食べたことでしょう。
そういえば、管直人首相が昔、厚生大臣だったころ、風評被害にあった「かいわれ大根」をむしゃむしゃと食べたことがありました。
あのときの勇敢な「管直人」はいったいどこに行ってしまったのでしょうか。
自己保身にひた走る今の首相は、上杉鷹山とは程遠い存在となってしまいました。
残念で仕方ありません。
現代に再び、上杉鷹山が現れることを期待します。
日本の首相
少し前のことになりますが、計画停電で近くのATMが閉まっていたときの話です。
銀行に行くと、銀行のATMの前は長蛇の列でした。
当然、待っている人たちはイライラしていました。
気が利かない銀行員は、ただ立っているだけです。
すると元気のいいおばさんがその銀行員に噛み付きました。
「なぜ、ATMを閉めているの?」。
「申し訳ありません、節電中なものですから・・・」。
「いつになったら使えるようになるの?」。
「私に聞かれてもわかりかねます」。
このときのやり取りを聞いていた私は、銀行員のまずい対応だなぁと思ってしまいました。
案の定、その元気のいいおばさんは、大きな声で一言。
「管直人みたいなこと言うんじゃないよ!」。
その後も怒りが収まらなかったのか、
「管直人みたいな無責任なこと言うな!」とか、
「まるで管直人のようだ」とか、もう言いたい放題でした。
それを聞いていた、あるおじさんは、
「管直人のようじゃいかんなぁ」と一言。
並んでいた人々はみんな爆笑でした。
これが巷での日本の首相の評判なのです。
その後、先日の辞める辞めないのゴタゴタがあった後は、悲しいかな日本の首相ともあろう人が、ペテン師だの詐欺師などの代名詞となってしまったのです。
ペテン師と言ってこけおろしたその人も、その昔、米大統領を「Trust me」と言ってペテンにかけたその人だったわけですから、ペテン師からペテン師よばわりされた首相は、まさしく大ペテン師ということになります。
これでは日本の未来は希望がありませんし、この国を誇りに思うこともできないでしょう。
一日も早い、希望を持てる首相の誕生を祈願します。