内村航平選手の快挙
男子体操の世界選手権で快挙が達成されました。
日本の内村航平選手が個人総合で3連覇という偉業を達成したのです。
3連覇は男女合わせて初めてという、まさしく快挙でした。
しかも今回の優勝は2位に大差をつけての完全優勝。
優勝候補だったとはいえ、プレシャーを跳ね除けての優勝は素晴らしいものです。
団体では残念ながら銀メダルに終わったわけですが、この内村選手は最後の鉄棒で成功しても不可能であったという点差を逆転するために、大技に挑んで落下していたのです。
個人総合ではその時点で優勝確実であったにも関わらず、やはり最後の鉄棒でその大技に挑み成功させるのです。
あまりにも完璧で美しい演技でした。
日本が追求してきた「美しい体操」を完成させた瞬間でもありました。
優勝インタビューが素晴らしかった。
「結果を残すために演技したのではなく、美しい体操を見てもらいたかった」。
内村選手の演技の目的は、けして金メダルを取ることではなく、美しい演技を見てもらい、世界の人々に喜んでいただき感動していただくことにあったわけです。
結果が金メダルであり、個人総合3連覇であったというのです。
私たちの仕事の目的もお客様に喜んでいただくことです。
結果が利益なのでしょう。
目的を明確にし、しかもぶれない。
内村選手から大切なことを教えられました。
オスマン・サンコン
親しい知人が経営する、南青山のフレンチレストランでの「オスマン・サンコン」さんを囲んでの会食。
流石、千両役者は違います。
面白い話にお腹を抱えて笑ってしまいました。
サンコンさんは、人を喜ばせ楽しませる術を心得ています。
そして、笑顔があまりにも素敵です。
この南青山のフレンチレストランの他、イタリアンやビストロなど合わせて6店のレストランを都内で経営する、凄腕の女性オーナーも、サンコンさんが繰り出すジョークやその一流のリップサービスに酔いしれていました。
和やかな楽しいひと時があっという間に過ぎました。
このサンコンさの誕生日はなんと、3月11日だというのです。
人生のモットーは「絆」。
あのときも真っ先に大相撲の尾車親方と共に現地に飛び、炊き出しなどをして多くの人々のために尽くしたのです。
日本人よりも日本人らしい、そして日本を愛するサンコンさんなのです。
日本と祖国ギニアとの結ぶ絆の先駆けとなりたい。
両国の国旗をあしらい「絆」と書かれた素敵なリストバンドを頂きました。
アフリカの国々の未来のためにまだ電気が無い地域に電気を引くプロジェクトでも奔走しているとか。
これからはアジアの時代、その次はアフリカの時代が来ることは専門家の共通の意見。
そのための未来への種蒔き。
高い志に圧倒されました。
この縁を大切にしたいと思います。
石川遼選手から学ぶ
那須高原のある別荘地の管理人から聞いた話です。
プロゴルファーの石川遼選手の父親が、別荘だか別荘地だかを探していたというのです。
それからしばらくしてまたあるときに、まったく同じ話を信州の白馬村の不動産会社の社長から聞きました。
石川遼選手のお父さんはとある銀行にお勤めだという話ですから、何やら広大な計画をしっかりと立てているのかもしれません。
さて、この石川選手ですが、著名人や有名人の方々と一緒にラウンドしたり、テレビのトークショーなどで一緒に仕事をすることも多いそうです。
一緒になるのはすべて年上で、しかもそれなりに力もあれば能力のある方々ばかり。
しかし、ほぼすべて人が石川遼選手に対して敬語を使って話をするそうなのです。
大御所たりとてそのようにせしめてしまう何かを、まだ二十歳そこそこの、石川遼選手は持っているということなのでしょう。
それは何か。
それはズバリ、礼儀やマナーが抜群に良いからなのです。
どうしたらこんな子供を育てることができるのかと、接するすべてのいわゆる「大人」が魅了されてしまうのだそうです。
ビジネスも同じでしょう。
お客様を魅了できれば黙っていても商品を買ったり、サービスを求めてくれるのです。
自分の子供もあの会社に入ればあんなに立派になるのだろうかと思えば、お客様は自然にその会社の引き寄せられていくはずなのです。
これからは人格や人柄力の時代です。
そんなことを強く思う、今日この頃です。
金の延べ棒
私の故郷は長野県諏訪市。
諏訪湖という大きな湖があるところです。
その諏訪湖に面したもう一つの市が岡谷市です。
昔はスピードスケートやボート、バレーボールなどが盛んで、地元の高校がインターハイ優勝や国体優勝などの快挙を成し遂げていました。
その岡谷市のある会社社長の自宅にある土蔵の床下から、金の延べ簿210本(時価約5億6300万円)と現金約6億7000万円が見つかったというのです。
勿論、資産隠しが目的だあったわけですが、不動産売買をしていると、これほど金額は大きくはないのですが、こういったケースにたびたび出会うことがあります。
私が聞いた話の中で笑い話のようなものもあります。
いくつかの瓶に札束を入れて庭に埋めて隠していたところ、その場所が分からなくなってしまい大騒ぎした話。
夫が不動産売買で儲けた金いわゆる「へそくり」を妻に内緒でトイレ設備のある場所に隠したところ、ある日、トイレが詰まってまい業者が修理に来てその札束を発見。
その業者が血相を変えて「奥さん、トイレの下から札束が大量に出てきました!」と報告して、その「へそくり」が水泡に帰してしまったという話。
やはり古い倉庫の下にお金を隠していたところ、その隠した本人が痴呆もあってかそのことを忘れてしまい、尚且つその倉庫や土地を売買してしまい、購入した業者が倉庫を解体し土地を造成するとき発見した話。
いずれも隠した張本人は、相当ばつが悪かったにちがないでしょう。
悪いことはできないものですね。
http://news.goo.ne.jp/article/asahi/nation/K2011100303870.html
ジョブス氏のご冥福をお祈りします
巨星が逝きました。
歴史を創った人でした。
時代を変えた人でもありました。
プレゼンテージョンの常識を覆しました。
その波乱万丈の人生は誰にも真似ができないでしょう。
ソフトバンクの孫正義さん曰く「人類は情報革命という、かつて経験したことのない激変期を迎えている」。
その中心にいたのが、まさしくジョブス氏だったのです。
インターネットのみで営業を展開する弊社「日本マウント」でも、その動向や発言には常に注目していました。
IphoneやIpadを使い、ソーシャルメディアを駆使して情報発信することを営業戦略の中心に据える弊社にとっては、他の不動産会社のどこよりも、ジュブス氏に対する憧れや期待が大きかったと自負しています。
どうして、時代のヒーローの多くが早くその生涯を終えてしまうのでしょうか。
歴史は時としてヒーローには残酷なものです。
「歴史にもしはタブーだけれど、もしジョブス氏がいれば・・・」と未来の人々が語るであろう、その未来が確実に訪れることでしょう。
ジョブス氏の功績とその名前は歴史に永遠に刻まれたのだと思います。
ジョブス氏、ありがとう。
そして、安らかにお眠りください。
http://jp.techcrunch.com/archives/20111005steve-jobs-has-passed-away/
「おひさま」が終わりました
NHK連続テレビ小説「おひさま」が終わりました。
信州の安曇野や松本を舞台に約半年という期間。
私はほとんどテレビは観ないのですが、ついついワンセグで時間があるときは観るようになり、ついには最終回に至るまで全体の8割ぐらいは観てしまいました。
こんなことは近年、珍しいことです。
やはり、故郷の信州での話しだったり、弊社「日本マウント」が特に力を入れてきた信州の安曇野を舞台としての話だったりしたからなのでしょう。
最後はほぼ全員が、ハッピーエンドの話だったので何かしらほっとしました。
特に主人公の陽子たちの世代の登場人物が全員、元気良く長生きしていたことは何よりでした。
戦争を体験し、戦後の貧困を体験し、経済復興を体験した、いわゆる「陽子世代」は実にたくましい人たちが多いです。
ちょうど私の父や母の世代の人たちです。
今の日本があるのも、彼ら彼女らの頑張りの結果なのでしょう。
本当に頭が下がる思いです。
精神的にも強いし、体も丈夫な人たちが多いので、きっと最も長生きする世代ではないかと思います。
むしろ、私たちの世代は大変です。
運動不足や飽食でメタボが多いのや、精神的に強くないので、直ぐにストレスに負けてしまいます。
戦争や貧困など最悪の極限状態を体験していないので、いわゆる「逆風」や「想定外」というやつに対する免疫がないのです。
それが、年々増加し続ける精神病や自殺の数に反映されているのかもしれません。
さて、この「おひさま」効果もあってか、弊社が力を入れる信州・安曇野地方の人気が急上昇中です。
「おひさま」は終わりましたが、安曇野の人気はまだまだ続くことでしょう。
自然が美しく、しかしどこかしら都会的なセンスがある「安曇野」をこれからもよろしくお願いします。
マラソン世界新記録に思う
ベルリンマラソンで男子の世界新記録が誕生しました。
2時間3分38秒という驚異的な記録です。
ケニアのマウイという選手ですが、ベルリンマラソンは2連覇、前世界記録も同じケニアの選手のものでした。
先の世界陸上でも長距離走では、男女共にケニアの選手が大活躍。
まさにケニア黄金時代到来の予感がします。
私は高校時代に2回、全国高校駅伝に参加したことがあり、勉強をほったらかして毎日、馬のように走ってばかりいました。
その当時、世界のマラソン界では日本勢が大活躍している頃でした。
早稲田の瀬古選手、旭化成の宗兄弟がまさに世界のトップランナーだったのです。
高校3年のとき、夏の合宿を長野県諏訪市の霧ヶ峰高原にある日本陸連の合宿所で行いました。
そのときになんと、当時、早稲田大学に在住する「瀬古利彦」選手と一緒になったのです。
間近に見た瀬古選手は、まさに流れるような美しいランニングフォームで私の横を走り去っていきました。
それまでは世界のマラソンランナーで大成した人は皆、長身で痩せていてしかも長足なのが常識でした。
かの五輪2連覇のアベベしかり、ミュンヘン五輪覇者のフランク・ショーターしかりです。
しかし、瀬古選手はどう見てもそれほど背は高くなく、しかも胴長短足。(瀬古選手御免なさい!)
その姿は衝撃的であり、同じような体型である私にとってはまさに希望の星であったのです。
その瀬古選手や同郷の中山選手、それに続く五輪銀の森下選手、世界陸上金の谷口選手が引退した後、マラソン日本という代名詞は徐々に廃れてしまうこととなってしまったのです。
このままケニア勢の独走を許してはいけません。
マラソンン日本の復活を期待したいと思います。
http://sportsnavi.yahoo.co.jp/other/athletic/headlines/20110925-00000064-jij-spo.html
福沢諭吉の祖先は
長野県茅野市豊平に「福沢区」という場所があるそうです。
この場所が福沢諭吉の先祖がいたところとして知られているというのです。
福沢諭吉は先祖のために1873(明治6)年に東京で建てた記念碑に「福沢氏の先祖は信州福沢の人なり」と記しているそうなのです。
福沢が長野県内のどこを指すかは分かっていないそうですが、この茅野市福沢区説は有力だとか。
戦国時代にこの福沢地籍に屋敷を構えた太郎左衛門善徳が、福沢諭吉の先祖の可能性があると思われているからです。
善徳は武田勝頼の軍に参加して、鳥居峠(塩尻市・木曽郡木祖村境)で木曽義昌軍に敗れた後、松本を治めていた小笠原氏に仕え、小笠原氏と共に大分の中津へ移り住んだというのです。
福沢諭吉の父・百助は中津藩に仕えており、つながりがあるみられているのだとか。
弊社「日本マウント」のビジネスでも、今年の信州は何かと話題です。
NHKテレビ小説「おひさま」の影響もあり、安曇野が大ブレーク。
この安曇野の別荘販売を始めてまだわずか1年半くらいですが、本当に沢山のお客様のお問い合わせを頂きました。
そして、この秋からはまさに福沢諭吉の先祖がいたというという茅野市、そして近隣の富士見町、原村に力を入れていくことになりました。
今年やはり大ブレークした、八ヶ岳の近くということもあり、かねてから力を入れたいと考えていた場所でもあるからです。
今から準備して、来年のシーズンには大ブレークすることを期待します。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E6%BE%A4%E8%AB%AD%E5%90%89
もう少し工夫して欲しいこと
地方のあるホテルでのことです。
どちらもその地方では老舗の一流ホテルだと思うのですが、少し工夫して欲しいと思うことがありました。
一つは朝食バイキングのことです。
野菜サラダを選ぶコーナーで種類が多いのは良いことなのでしょうが、お客様が選んだりお皿に盛り付けるのに時間がかかってしまい、待っているお客様の列が渋滞になってしまうのです。
他の食品との並べ方が悪いので、その他のコーナーは空いているのに、この場所を通ってから他のコーナーに行くような動線を作ってあるのです。
待たせれているお客様がイライラしている雰囲気が伝わってきます。
もう少し工夫が欲しいものです。
二つ目は別のホテルでのことですが、パソコンに繋ぐLANケーブルの件。
このホテルでは机についていないのです。
テレビの横についているのです。
不思議なのはその近くには机もなく、コンセントもないのです。
いったいどうやって使うのでしょうか。
これにはもう笑ってしまいました。
私は仕方なくテレビをどかして、そこにパソコンを置き、冷蔵庫のコンセントを抜いてそれを使いしました。
お客様が使うことを考えて設置したとは思えないのです。
これが地方の老舗ホテルの基準なのです。
サービスの本質をもう一度考えて欲しいと思いました。
そうでなければ、益々、地方は廃れていってしまうでしょう。
力がある者が勝ち、やがて全国展開し、地方の老舗は滅んでいく歴史が、あらゆる業界で進んでいってしまうのです。
もう一部のビジネスホテルチェーン店の方が、ある意味サービスが上かもしれません。
負けるな!地方の老舗や一流と言われてきたホテルよ!
そう叫びたくなりました。
天才料理人
天才料理人「米田肇」さん。
ミシュラ三ツ星の凄腕です。
驚くのは開店からわずか1年5ヶ月でそれを極めたことです。
さらに驚くのはその経歴です。
高卒後、電子工学を学び、コンピューター関連会社に就職。
夕食代を200円に切りつめ、トイレットペーパーを節約するために会社で用を足すなどして、2年間で600万円を貯めて、大阪の料理学校で1年学んだ後、料理の世界に飛び込むのです。
26歳の時だったそうです。
その後、日本での修行中も、その後のフランスでの修行中も、けして順風満帆とはいかず、むしろ数々の試練を悪戦苦闘しながらも乗り越えて、遂にミシュラン三ツ星に至るのです。
そのミシュランがコース前半の野菜料理を「パレットのように彩り豊か」と絶賛したというのです。
「地球からの人へのメッセージ」とメニューに書き添えたこの料理は、まるでデッサンなしにキャンバスならず大皿に色とりどりの野菜ピュレと生野菜、温野菜で模様を描いていくものなのです。
頭の中の配置から0.5ミリでもずれたら、すべてをやり直すというのです。
「100マイナス1は、99じゃありません。ゼロなんです」。
「三ツ星は取れると思っていました」。
自らの料理の腕と美意識に自負がある、天才「米田肇」さんは淡々とした口調で語ったそうです。
天才は天才たる理由があるのです。
この料理、一度、味わってみたいものです。