別荘ライフ、田舎暮らしを応援する日本マウント(株)現地スタッフblog、茨城県担当の加藤ゆみです。超広大な「水郷筑波国定公園」銚子編、香取編に続いて、今回は“なめがた玉造編”として、私の居住地でもある茨城県行方市(なめがたし)の玉造地区を御紹介させて頂きます。行方市は霞ケ浦(西浦)と北浦に面していて、霞ケ浦、北浦とも其の全域が、水郷筑波国定公園の指定となっています。霞ケ浦、北浦の二つの湖があることから「ニ湖の国」と云ったりもしますが、これはあくまで市民の一部の間でのこと。とはいえ、霞ケ浦と北浦に面しいるだあって朝日や夕日の景勝地が多く、その素晴らしさは太鼓判です。といいますのも、私が東京からの移住先に行方(なめがた)を選んだのは、霞ケ浦の雄大で繊細な景色に魅了されたからなのです。
銚子編、香取編などと重複しますが…
水郷筑波国定公園は東京ドーム約7.330個分!!
日本全国に56カ所ある国定公園のひとつ「水郷筑波国定公園」の総面積は、約34.300㌶。東京ドーム約7.330個分にもなる広大なスケール。古から山岳信仰や民衆信仰の拠り所とされてきた筑波山域と、日本で二番目に大きな湖の霞ケ浦、常陸利根川の両岸の潮来(茨城県)と佐原(千葉県)の水郷地、そして、鹿島神宮(茨城)、香取神宮(千葉)、そして太平洋に突き出した犬吠埼から屏風ヶ浦周辺の海岸線までに及び、海、川、湖、山とバリエーションが豊かであることが特徴で魅力であるといえます。
国定公園指定の目的・経緯
この一帯固有の自然風景地の保護、生物の多様性の確保、また、鹿島神宮・香取神宮・筑波山神社などの著名な神社、山岳信仰や歴史的景観など文化的景観保護、国民の健康保持増進・休養・教化に資するものとすこと等を目的として計画がなされ、1969年2月1日に水郷筑波国定公園域の指定がされました。
それより前の1959年に、筑波山域を含まない、霞ケ浦・潮来・佐原の水郷地、鹿島神宮・香取神宮、犬吠埼から屏風ヶ浦周辺の海岸線までが、水郷国定公園と定められ、後の1969年に筑波域の山岳地が加わり、現在の水郷筑波国定公園に改められたという経緯があります。この1969年の指定に至るまでには様々な経緯をたどっています。
行方市「ゆくえし」ではありません(笑)
おおよその方は何て読むの?と仰います。かくゆう私も読めませんでした。移住先の住まいを見つけることに見中で、「行方」の読み方に気が回らなかった私は、新たな住まいとなる中古別荘の契約の席に着き、そこで「あ、ナメガタいうのね」と知った次第(笑)。行方と書いて、なめがた…。今はその由来や歴史を、多少は学びました。
人間よりも豚のほうが多い行方市ですが…
行方市(なめがたし)は,2005(平成17)年に行方郡の麻生町、北浦町、玉造町の3町が合併して誕生しました。東京都心からは北東に約70km。茨城県南東部の気候が温暖な鹿行地域(潮来市・行方市・鹿嶋市・神栖市・鉾田市)に位置しています。琵琶湖に次ぐ面積の湖、霞ケ浦(西浦)と北浦に挟まれた行方市の総面積のうち、約四分の一を湖が占めています。西浦・北浦の湖岸部は低地、内陸部は「行方台地」といわれる標高30m前後の丘陵台地となって、この丘陵台地のなだらかな稜線が、行方(ナメガタ)という地名の由来といわれていて、この由来については常陸風土記の行方郡の章にヤマトタケルの伝承として書かれています。また、現在の行方市には常陸風土記に見られる地名や史跡が多く残っていて、これは行方市の特徴といえます。
特産品は豚・卵・サツマイモ・せり・レンコン・しらうお・鯉などで、かくれた名産では玉造地区沖洲のタマネギ。
常陸風土記にみる“なめがた”
常陸国風土記(ひたちのくにふどき)は、奈良時代初期、713(和銅6)年に編纂され721(養老5)年に成立した、常陸国(現在の茨城県の大部分)の地誌。その風土記のなかに“なめがた”の呼称の由来が記されています。
倭武天皇は車駕(みこし)をめぐらして、現原あらはらの丘にお出ましになり、土地の神に食事を供え奉られた。そのとき天皇(ヤマトタケル)は、四方を眺み、侍臣たちを振り返りおっしゃった。「輿こしを停めて歩きつつ眺める景色は、山の尾根も海の入江も、互い違いに交はり、うねうねと曲がりくねり続いている。峰の頂にかかる雲、谷に向かって沈む霧、見事な配置に並んでいて、繊細(くはしい)な美しさがある。この国を名を行細(なめくわし)と呼ぼう」行細の名は、後には、行方(なめかた)というようになった…。という口伝を元にした常陸風土記に書かれている伝承。
「行細なめくわし」の「行なめ」は滑らか・平坦の意味。「細くわし」は繊細の意味。「山の尾根も海の入江も…」の海は霞ケ浦のことで、霞ケ浦は1000年前まで香取海という内海の一部だったのです。また、倭武天皇がお出ましになられた“現原の丘”の推定地は行方市の玉造地区です。常陸国風土記における行方(なめがた)にはヤマトタケルの伝承が数多いことが特徴的です。行方のヤマトタケル伝承はまた別の機会に御紹介するとして、西暦721年に完成した常陸風土記に“昔話”として書かれているヤマトタケルによる“なめくわし”のお話、いったいどれくらい昔のことなのでしょう…。12代景行天皇の王子、ヤマトタケルは西暦82年―111年の時代に生きた方と想定されますから、“なめくわし=まめがた”の呼称にはザックリ1900年ほどの歴史があるということになりますね。

水郷筑波国定公園、行方市浜(玉津造地区)から望む霞ケ浦と筑波山。対岸の小美玉市やかすみがうら市もなだらかな丘陵。筑波山だけが突出し神々しい。大気が澄みわたる冬には、この位置から視線を左に90度むけると、富士山も望める。古代からのパワースポットの一つだと感じる。
地図上の行方市
茨城県の約35%の面積を占める霞ヶ浦。
霞ケ浦(かすみがうら)は、茨城県南東部に広がり、広義には、西浦と北浦、常陸利根川(北利根川、外浪逆浦及び常陸川)、鰐川、横利根川(河川法上は5河川からなる一級河川)を総称した水域を指し、狭義(湖沼学的)には西浦のみを霞ケ浦といい、これが一般にも浸透していると思われます。
広義でいう流域市町村には、茨城県の22市町村と、千葉県香取市と栃木県益子町に及び、流域の一部は水郷筑波国定公園に指定(狭義の霞ケ浦は全域指定)されています。
広義の霞ヶ浦(常陸利根川、横利根川、西浦、鰐川及び北浦)の総面積は約220平方キロメートル、狭義(西浦)でも総面積は172平方キロメートルで、日本の湖沼では琵琶湖についで二番目に大きく、平均水深は約4メートル、最大水深は約7メートルと浅いという特徴があります。
1000年前には香取海という内海の一部だった霞ケ浦。江戸時代以降の利根川の瀬替え(治水工事)に伴い、そこから下流へは利根川本流が流れることとなり、流域干拓成され、低塩汽水化。現代になり、1963昭和38)年に常陸利根川の河口に水門(常陸川水門)が設けられ、外洋水は完全に遮断され淡水湖となりました。

「水郷筑波国定公園指定域」行方市の旧玉造町、旧字地名「御釜ヶ浜」の「御釜様」。霞ヶ浦に海水が入っていた時代に塩を造っていた釜を祀った祠(個人私有地)。この写真では霞んでいますが、霞ケ浦越しに筑波山を望む素晴らしい眺め。ここは知られざる史跡。行方市浜
霞ケ浦の入江
土浦入り霞ヶ浦(西浦)の土浦市方面に伸びている水域。北側をかすみがうら市(旧霞ヶ浦町、旧出島村)、西側を土浦市、南側を阿見町、美浦村に囲まれている。
高浜入り霞ヶ浦(西浦)の石岡市方面に伸びている水域。北側を小美玉市(旧玉里村、旧小川町)、西側を石岡市、 南側をかすみがうら市(旧霞ヶ浦町、旧出島村)、東側を行方市(旧玉造町)に囲まれている。また高浜入りの周囲の丘には古墳が数多く現存していて、古墳銀座ともいわれている。
霞ヶ浦の語源
ここでもまた、『常陸国風土記』行方郡の条です。「香澄(かすみ)の里」に由来すると言われる。大足日子(景行天皇)が付き随う臣下に「海には、すなわち青い波が漂っており、陸には、これまた、赤色の霞がたなびいている。国がその中にあると私の目にはみえる。」と言ったことが語源の1つだとされる。しかし明確にいつ、誰が名付けたかに関しては不明のようですが、古代も今も、霞む霞ケ浦です。
消えた水郷風景

「白土貞夫・中川浩一著鹿島鉄道-鹿島参宮鉄道・関東鉄道鉾田線2008年6月発行」表紙より。行方市玉造地区の霞ケ浦べりを運行していた旧鹿嶋鉄道。護岸道路が整備されるより以前の写真で、写真左下の様子から当時の水辺の暮らしがうかがえる。この鉄道がひかれるる以前は更に民家と水際の距離が近かったのだ。鹿島鉄道は、2007(H19)年4月1日に廃止になり、跡地は草が生い茂り、自然風景に同化している。
舟運から鉄道や自動車へと交通・輸送の形が変様したことや、陸路護岸整備により消えた暮らしの景色、霞ケ浦に面した集落の数々には河岸といわれる船着き場があり、水と共に暮らす水郷の景色がありました。いまでは想像がつきませんが、それでも乱開発をされていないおかげで、視点を道路から水上へ移し、水上から陸を観察すると、古からの水辺の暮らしが見えてきます。想像を膨らませ考察をし、その土地の記憶を訪ねる(学ぶ)のも、楽しいものです。また、暮らしむきの傍に観光地として栄えていた時代もあったようで、霞ケ浦全体で13カ所の湖水浴場があったといいます。ここ行方市の玉造地区の沖洲には、昭和40年頃まで、桃浦という湖水浴場があり、東京からの観光客でたいへん賑わっていました。
「水郷筑波国定公園」霞ヶ浦岸、玉造地区の魅力
霞ケ浦と筑波山を結ぶナショナルサイクリングロード
霞ケ浦の堤防・霞ヶ浦湖岸道路と一体化しているナショナルサイクリングロード「つくば霞ヶ浦りんりんロード」は、筑波山エリアを結ぶ全長約180kmのサイクリングコースで、筑波エリアの旧筑波鉄道廃線敷と霞ヶ浦を周回する湖岸道路を合わせた全長約180kmのサイクリングコース。水郷筑波国定公園、霞ヶ浦などの水郷地域や、筑波山地域の豊かな自然や風景、鹿島神宮に代表される歴史的・文化的資産など様々な地域の魅力が楽しめるコースとなっているのが特徴。
ナショナルサイクリングロードとは「日本を代表し、世界に誇りうるサイクリングルート」を国が認定する制度。サイクリングを通じた健康づくりや、余暇の充実、人々の行動を広げて、地域とのふれあいや仲間とのつながりを取り持つコミュニケーションツールとして自転車の活用が世界中で注目されるなか、日本では、2017年に施行の「自転車活用推進法」に基づき、全国で自転車活用の推進計画が進められています。 その一環として、各地の新たな観光価値の創造や地域創生を図るために創設されたのが、ナショナルサイクルルート制度。
とにかく、水郷筑波国定公園域でサイクリングが楽しめるわけです。霞ケ浦を周回するコースは「霞ヶ浦湖岸道路」ですので自動車の走行も可能です。※迂回路は道幅が狭い。
水郷筑波国定公園を走るりんりんロード付近のスポット
水郷筑波国定公園を走るりんりんロード付近のスポット、今回は玉造地区をご紹介、麻生地区は「麻生編」で。水郷筑波国定公園域に在り、行方市が玉造地区が誇るべきは何といっても水辺の景色と旧跡だと、移住者の私は思うのです。
「古代の水辺のモニュメント三昧塚古墳」
古代には水に浮かぶ砦のような様相だったのではないかしらと、想像が膨らむ常陸の雄「三昧塚古墳」は、玉造地区沖洲の霞ケ浦にめんした低地、河川によって運搬された砂・礫・泥などが堆積してできた沖積地に在ります。また、三昧塚古墳は「沖洲古墳群」のひとつで、沖洲古墳群には大小10基ほどの古墳が現存しています。
三昧塚古墳の築造時期は5世紀中葉から後半。墳形は前方後円墳。全長85m、後円部径47m、前方部幅36.5m、後円部高さ8m、前方部高さ6m。周囲は濠でめぐらされ、約2mの深さを有し、墳丘には円筒埴輪が三重に配置されていたと考えられている。 後円部中心の、墳頂下2.7mに箱式石棺が置かれ、伸展葬の形で遺骸が埋葬されていた。副葬品の数が多く、金銅製馬型飾付冠、金銅垂飾付耳飾、平緑変形四神四獣鏡等があり、ほかに短甲、鉄鏃、円筒・形象(人物・動物)植輪等も確認されている
1955(昭和30)年、築堤工事に伴う土取りのため墳丘破壊掘削工事がはじまり、見識者でもある住民から通報をうけ、後藤守一・斎藤忠・大塚初重らにより緊急発掘調査が行われ、大塚初重により盗掘口より更に下から未盗掘の石棺が発見され、副葬品多数の出土となった。これをもって土砂取り工事は中止され、半身の状態で長年おかれた。
時が過ぎ、古墳域が1990年(平成2年)に行方市指定史跡に指定され、出土品は2018年(平成30年)に国の重要文化財に指定された。また、墳丘復元を伴う史跡整備がされ、三昧塚古墳農村公園として公開され、訪れる人々の憩いの場となっている。

江戸時代に描かれた沖洲絵図にみる三昧塚古墳。墨で塗りつぶされている部分は田んぼ。後方墳頂にお稲荷さんを祀っている。古墳の墳頂に稲荷や神社を置くケースは多い。この沖洲絵図は、所有者から直接拝見させて頂き、カメラにおさめたもの。絵図全体は畳3帖分ほどで、当時の沖洲集落全体が描かれている。
三昧塚古墳・国指定重要文化財一覧 金銅馬形飾付透彫冠 1点 金属製品 一括 砥石 1点 玉 7点 竪櫛残欠 1点 石棺 1組 附 鉄製品残欠 一括 附 ガラス小玉残欠 一括 附 埴輪残欠 31点
「ほほえみの浜」霞ヶ浦にかつて13か所あった湖水浴場(昭和40年代に全て廃止)を復活さる試みで、 当時の美しい環境を再現しようと、行方市沖洲の旧桃浦湖水浴場近くに、2010(平成22)年に湖岸道路(霞ヶ浦りんりんロード)の内側に人工の砂浜が整備された。高浜入りの奥に位置する沖洲も筑波山を望む夕日の名所で、空気が乾燥する冬には富士山も望める。行方市沖洲。
「常福寺」京都真言宗新義派三宝院末寺 常福寺。開山は天福元年(1233)年)。常陸地方では寺格が高く、多くの修行僧が学び、高野山はじめ各地の寺院へ赴いたといわれている。戦国末期には佐竹領となり佐竹氏の庇護を受け、一時期祈願寺となった。元禄年間の沖洲村絵図には七堂伽藍(がらん)が描かれ、山門も「一の門」と「二の門」があった。しかし、天明年間(1781~1789)年に裏山の山崩れで堂宇が崩壊し火災に遭い、二の門と仏像を残して焼失した。現存の門は「二の門」に相当し、霞ヶ浦湖岸から続く参道に在ったが、昭和初期に現在の場所に移転させた。この山門様式は、妻入り四脚門形式、茅葺き切妻造。また、蟇股(かえるまた)に特徴があるなど、室町中期頃の名残をとどめる地方色が濃い。昭和50年1月31日に市指定有形文化財に指定され、地域の人々に保護されてきたが、風雨にさらされ傷みがひどくなり、平成11年度に屋根を銅板葺きに改めるなど、解体修理が実施された。また、天明年間の火災を免れた仏像「木造随身立像」二躯が、平成3年に旧玉造町指定文化財に指定されたが、のちに茨城県立歴史館の寄贈された。往時地を偲びようの無い侘しさなれど、それも一つの魅力だと思う。行方市沖洲179-1
「萬福寺」天台宗 雷電山 慈心院 萬福寺。平安時代末期、平清盛の家臣平貞能の開基による寺で、常陸平氏の信仰と平清盛の嫡男重盛の菩提を弔う歴史を持つ平家ゆかりの寺。万福寺仁王門は天正6(1578)年に稲敷市小野(旧新利根町)の逢善寺に建立されたが、享保9(1724)年、逢善寺で新たに仁王門を建立するにあたり、当時萬福寺住職であった快尊が、以前逢善寺の留守住職をしていた縁故から、古くなった仁王門を譲り受けたもの。解体し霞ヶ浦を船で運び移築されたと云われている。様式は三間一戸の単層、萱葺き、入母屋造り、組み物には種々の彩色を施した彫刻があり、部に唐様式を認める室町時代末期の作柄を持つ貴重な建造物。また、金剛柵に囲まれて安置されている仁王像は平成23年5月26日に、行方市指定文化財に指定されている。平成20年9月から平成22年9月の修理により、吽形像左腕取り付け接合面に墨書銘から、江戸時代中期、享保8年(1723年)の造像と確認された。同時に、左腕の再興銘により明和3年(1766年)に再興されたことも判明。仏師名(大仏師□慶□)と造像年が確認できた貴重な仏像。そのほか、萬福寺を象徴するものとして、昭和45年9月指定の茨城県指定有形文化財の阿弥陀堂がある。唐和様折衷形式で廟建築を加味した三間四方の寄棟造りで、四手先萱葺の念仏三昧を納める常行堂様。式行方市羽生745行方市羽生745
「橘郷造神社(たちばなのさとのみやつこじんじゃ)」ヤマトタケルの后、弟橘姫命(おとたいばなひめ)を祀る神社。祭神は弟橘姫命と木花開夜姫命。平安時代に編纂された歴史書「三代実録」に記載がある。鎌倉時代の歴史書「東鑑」では、源頼朝がこの神社周辺地域の橘郷を鹿島神宮へ寄進したことが記されている。社殿は、応仁(1467~1468)・文明(1469~1486)兵火に遭い焼失。その後再建され幾度かの改修が行われ現在に至る。この社殿は昭和50(1975)年に有形文化財に指定された。また、7月の羽生祇園祭の「羽生ばやし」は無形文化財に指定されている。行方市羽生1390
「弟橘姫命(おとたちばなひめ)伝説」倭武尊(やまとたけるのみこと)が、東国征伐に船で相模国(神奈川県)から上総国(千葉県)に渡るとき、海が荒れ狂い、今にも船が沈みそうになりました。女の人が船に乗っているため、海の神がお怒りなのだと、弟橘姫は自らあらしの海に飛び込み生贄になりました。すると、荒れ狂っていた海が静かになり、倭武尊たちは、無事、上総国へ辿りつくことができました。それから何日かの後、弟橘姫のさしていた笄(こうがい)が、霞ヶ浦まで流され岸辺に打ち上げられました。流れついた笄を守るかのように鳥が群がり、その笄は羽を生やして飛んだともいわれています。笄の飛んで行ったところを笄崎と名付け、神社を建てて笄を納め、弟橘姫の霊を祀ったということです。羽生や立花(橘)という地名は、こうして生まれたといわれています。
「羽生の古代ハス」古代ハスが自生する溜池。羽生館跡がある羽生集落に在ることから、古くから利用されてきた溜池と考えられている。 羽生地区資源を守る会が中心となり国・県・市の補助をうけ「古代蓮(はす)」の再生活動に取り組んでいる。霞ケ浦護岸近くに位置し、ここからも霞ヶ浦の雄大な景色を堪能することが出来る。行方市羽生字ホロワ
「椎井池/夜刀神神社」(しいのいけ/やとのかみじんじゃ)こんこんと清らかな水が沸く椎井池(しいのいけ)と椎井池の崖の上にある夜刀神神社、またまたヤマトタケル伝承の地です。伝説を超簡単に説明しますと、夜刀(やと)はこの森にすむ角の生えた巨大ヘビで、やとは、水田を開拓しようとした善い人に嫌がらせをして、やとは善い人によって皆殺しにされた。その霊を鎮めるべく祀ったのが夜刀神神社。けっこう怖い伝承ですが、読み解きかたは様々で、夜刀(やと)は谷津に住む先住者で、後から来た人から本当に皆殺しの目にあったかは定かではありません。しかし、入植者(新権力)がその土地を制圧し、その土地の土着の神を大切に祀ったということではないかと、解釈がされています。椎井池は、せまく深く切りたった谷戸の底に在って、今でも清らかに、こんこんと水が沸いています。行方市玉造甲3451-1
「玉清井 」玉清井(たまきよのい)またまたまた、ヤマトタケル伝承地。推定西暦100年頃、ヤマトタケルが香取海の北側の霞ケ浦を征しこの地に降り、この清らかな泉が枯れることが無いよう、この土地が栄えるようにと、玉を用いて祈りを捧げた泉。こちらは近年、水が枯れつつあります。行方市井上893-1
「西連寺」天台宗尸羅度山曼殊院西蓮寺、別名:常陸高野西連寺。常陸の高野山ともいわれる西連寺は、桓武天皇の勅願により、延暦元年(782年)伝教大師最澄の徒最仙上人によって開創された。 最仙上人は、常陸国関城(現在の茨城県筑西市)出身の高僧で、中国に渡り修行を重ね常陸の講師として帰郷、常陸国(現在の茨城県)で天台宗の布教に尽力しした。仁王門と相輪橖は国指定重要文化財。寺の開祖、最仙上人お手植えと伝えられる樹齢1000年を超える2本の銀杏の大木は関東最古。御朱印受付時間9:00~11:45、13:00~16:00
「常光院」泰英山 曹洞宗 常光院。創建は永享12(1440)年、開基は佐竹義舜。開祖は宇都宮成髙寺から請した要山玄的大和尚禅師。桃山時代の寺院建築様式を模倣した山門は、市指定有形文化財。1月、新春祈祷会。身代り地蔵尊大祭。3月、春の彼岸会。4月、花まつり(お釈迦さまのお誕生日を祝う行事)。7月、七夕会。8月、施食会・お盆の棚経。9月、秋の彼岸会。御朱印受付時間。毎日9:00〜16:00。行方市小高1201
「東福寺」天台宗 瑠璃光山 薬王院 東福寺。現在の薬師堂(本堂)は1848年に建造。1351年に比叡山の東範僧正(とうはんそうじょう)が草創。当時は薬王院といった。その後一時廃れていたが、江戸時代の1692年に法印典信(てんしん)が寺を中興して東福寺とした。それから毎年年に一回1週間の開張法会を行い、水戸徳川家からの達し(後押し)で、門前に参道と交差する広い小路を設備し新市という市を開いた。参道は舟串河岸という船着き場から真っすぐ伸びていた。新市には、近隣から800人ほどの豪商が集まったといわれている。しかし、1828年に火事で寺が焼け、次第に衰退した。また境内に円墳が2基ある。行方市浜637
動物園/展望塔/特産品直売/休憩
霞ヶ浦ふれあいランド
「虹の塔」全高64m、展望室51.2m。360°パノラマの展望台。敷地内には子供が遊べる広場(親水公園)がある。毎週月曜日(月曜が祝日の場合は翌日)と12月28日 – 12月31日は休館利用料金一般大人600円 子供300円。団体(20名以上)大人500円。 子供250円※親水公園への入場は無料。親水というが水は無い。
「みんなとどうぶつのいえ」2020年3月31日に閉館した水資源機構の旧水の科学館跡をリノベしてオープンしたキリンがいる動物園。看板が不明瞭で入口が分かりづらい。営業時間 10:00~16:00 駐車場は建物の北側。定休日 水曜日
「道の駅「たまつくり」行方市観光物産館」常に、毎朝とれたての新鮮な野菜や地元行方市の特産品がならぶ、霞ケ浦大橋のたもとにある風光明媚な直売所。霞ケ浦に面したデッキテラスは心地がよい。軽食の提供もある。 営業時間 9:00~18:00年中無休。※私のおススメ新鮮商品は、霞ケ浦名産しらうお、産みたて卵、涸沼のヤマトシジミ。もちろん農家さんが丹精した新鮮野菜はどれもオススメ。当地の郷土料理は鯉の煮つけですが、私は鯉やナマズは苦手で、、、。
「霞ヶ浦湖岸桜堤」ふれあいランドの北側にある桜の名所。
水郷筑波国定公園に暮らす「手賀のガーコちゃん」
行方市玉造地区、手賀集落の霞ケ浦護岸(りんりんロード)にいる白鳥のガーコちゃん。ピンポイントで此処がお気に入りのようで、いつも一人(一羽)でいい子にしています。手賀のこの辺りは夕景の富士山の撮影スポットで、空気が澄み渡る冬になると、プロ、アマ問わず多くのカメラマンで賑わいます。また、初夏から秋にかけて、土日のみ「ひまわり」という無人屋台がでています。実はガーコちゃん、無人屋台のオーナーである優しい女性に懐いて、番犬の如く此処にじっといるのです(餌付けはしていません)。切なく成るほど愛らしいガーコちゃんでした(^^) 。
水郷筑波国定公園、霞ケ浦に面する行方市の玉造地区をザックリと御紹介致しましたが、如何でしたでしょうか。古墳好きな方は、舌状台地や水のある所に古墳在りといいますが、まさに、霞ケ浦に添った行方台地には夥しいほどの古墳が現存し、霞ケ浦高浜入りの奥には「古墳銀座」と呼ばれるエリアがあります。古墳好きな私ですので、また別機会に“深堀り”でお届けしたいと思います。
古代からの人営みを知る史跡や遺跡、国定公園に指定される雄大で繊細な美しさをもつ自然風景のなかで暮らすという選択も宜しいのではないでしょうか(^^)。
ちょうど今、このエリアに広い敷地内にブルーベリー畑や山菜畑がある物件を日本マウントのホームページに掲載中です。ほかにも手軽な広さの中古別荘なども多数掲載しておりますので、ぜひ、閲覧下さいませ。
太平洋が近い場所で、田舎暮らしはいかがでしょう!
こちらの物件が気になる方、お気軽にお問い合わせ下さい。
喜んでご案内いたします。
千葉県・茨城県の日々をインスタグラムで紹介しています。
ご興味がございましたら、チェックしてみてください。
2拠点生活中の日本マウント現地スタッフ:https://www.instagram.com/chiba_ibaraki/
加藤ゆみ(田舎暮らし、別荘ライフ 案内人):https://www.instagram.com/oyumi_country_life/
これからも田舎で暮らしてみたいと思えるようないいところ、お得な情報等、発信していきます。
どうぞよろしくお願いいたします。
その他の「茨城県・鹿嶋市・鉾田市エリア」関連物件をご紹介
その他の「千葉県エリア」関連物件をご紹介
***********information***********
【別荘、田舎暮らし物件の不動産購入】のご相談はこちらへ
ご相談は、日本マウントホームページの問い合わせフォームからどうぞ!
売却のご相談も承りますのでお気軽にお寄せ下さい!
本社と現地スタッフのネットワークでいち早く対応します
【日本マウント】田舎暮らし中古住宅専門の不動産会社です
東京都品川区平塚2-5-8五反田ミカドビル3F
営業時間 > 月~金 9:00~18:00 / 土・日・祝日 9:00~18:00
電話 > TEL:03-6451-3960
★公式サイト:https://resort-estate.com/
★全国の物件なら「いなかも家探し」:https://resort-bukken.com/
★物件売却のご相談(無料):https://resort-estate.com/baikyaku
日本マウント公式instagram
別荘地での暮らし・地方移住に役立つ情報を
日々発信中!
https://www.instagram.com/nihonmount/
【不動産会社様へ】無料で物件掲載、反響が直に届くサービスの紹介
★無料で物件掲載について:https://resort-bukken.com/keisai
コメント